2008年07月23日

悲しい悲劇がそこにはあります。

植民地のはなし。

植民地(しょくみんち)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。殖民地とも表記する。古くは古代ギリシアや古代ローマなどにも見られるが、以下では15世紀に始まる大航海時代以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。

概要
古代にも植民地はあるが、「植民地」の規模をそれまでにないほど大きくしたのは近代西欧諸国の産業資本主義の対外交易戦略によってである。初期にはポルトガル・スペイン両帝国が、19世紀から20世紀にかけては英国が、植民地交易によって世界覇権を握った。

一般に帝国主義的先進国が植民地を原料工場・商品市場として開発するとともに、住民を政治的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。例えばフランスはマルティニーク島の原住民を殲滅し、純粋な島民は絶滅した[1]。

平和的プロセスによって植民地が獲得される場合もあるが、いずれにせよなんらかの形で獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。

1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は以降現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[2]。こうした一連の過程を脱植民地化という。

植民地化の要因
植民地化の動機・要因には、主に以下のようなものがある。

天然資源や労働力(奴隷)、市場の確保
本国に隣接した地域への領土拡大
本国民を移住させるための開拓地獲得
本国や既得植民地、海上交通路の防衛のための要塞や緩衝地確保
他国の植民地とされる前に勢力圏として確保
宗教的使命による布教地拡大
(以上、ウィキペディアより引用)

大変なんでしょうね。

相互リンク
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2008年04月14日

大航海時代

どんな時代だったんでしょうか?

大航海時代(だいこうかいじだい)とは15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。かつては地理上の発見あるいは大発見時代と呼ばれていたが、ヨーロッパから見た主観的な概念となってしまうので呼び名が大航海時代へと変えられつつある。

中世までの東西交流

愛馬・ブケパロスに騎乗したマケドニア王アレクサンドロス
エジプトを攻略する十字軍人類は互いに交流する動物である。古代からシルクロード沿いなどに勃興した国家や地域を介して物や文化がユーラシア大陸の東西間で細々と伝播されていたが、その遠大な距離は両者の直接的な交流を長く阻んでいた。

古代ギリシャのころまでヨーロッパ人が描く世界は地中海周辺やアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部に過ぎなかった。アレキサンダー大王の東方遠征によってインドや中国がヨーロッパ人の世界観に加えられるようになると、僅かではあるが東西間の人々の間に直接的な出会いが発生するようになる。後漢書のような古文書に太秦国(ローマ)や安敦(ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス?)の記述が見られ始める。アントニヌスは宿敵・パルティア挟撃のために後漢に使節を派遣したと伝えられている。

その後東西の直接的な交流が順調に発展したわけではない。ローマ帝国の滅亡により統一性を失ったヨーロッパ社会は、ゲルマン人やそれに続くノルマン人の侵入によって混乱を極めた。ついで8世紀にイスラム勢力にイベリア半島侵入を赦し、ヨーロッパは狭い領域に押し込められ暗黒の時代を迎えた。こうしたヨーロッパ社会に東西交流を推進する余裕が残されているはずもなかった。

各国に成立したゲルマン民族諸国家は数世紀を経て淘汰洗練されていく。フランク王国のような強力な国家が出現しカトリックを基盤とする価値観を共有する現代の系譜につながるヨーロッパ社会が成立した。商業も発達して富が蓄えられ外界に目を向ける余力も発生した。

11世紀後半、セルジューク朝トルコによるパレスチナ征服をきっかけにビザンツ帝国はローマ教皇・ウルバヌス2世に援軍を要請した。教皇が聖地回復のための十字軍結成を各国の王侯貴族に呼びかけると各地から大軍勢がはせ参じた。十字軍の遠征には宗教目的のほかに欲望に満ちた現実も存在した。教皇は東方教会への影響力拡大を望んでいた。王侯貴族は領地やイスラムの富や財宝を望んだ。王侯貴族の祖先達がローマ帝国や敵対勢力から気ままに切り取ってきた土地は、人口増加や秩序の安定から残り少なくなっていた。そのうえ隆盛を極めるイスラム支配地にはあり余る富がある。

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野心家や無頼漢、さらに狂信者を含んだ十字軍は1096年、怒涛の快進撃でパレスチナやその周辺を占領し国家を建設した。その後態勢を整えたイスラム勢力の反撃が開始されると戦局は一進一退をくり返すようになる。長引く戦争によって十字軍に内紛や腐敗が蔓延り、戦費調達のための重税やペストの大流行によってヨーロッパ本土の人民や土地は疲弊した。こうしてヨーロッパ勢力は兵站の確保もままならず聖地から後退し駆逐されてしまった。

東西交流の発展

マルコ・ポーロ十字軍の派遣はこのように失敗したが予期しない成果をヨーロッパにもたらした。戦争によって東西交流が進み、ヨーロッパ商人とイスラム商人が盛んに交易し商業が著しく発展したことである。ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が輸出され、イスラムから香辛料や絹などの交易品が今までより安価にヨーロッパに流入するようになった。イスラムとの交易が盛んになると、まず、ヨーロッパとオリエントの中間に位置するビザンツ帝国やイタリアの商業都市が好景気を迎えた。イタリアにルネッサンス運動が興って文化や科学技術が著しく発展した。

モンゴル帝国がイスラム諸国を征服すると、ローマ教皇やヨーロッパ王侯貴族は国情視察を兼ねてモンゴル帝国に次々と使節を派遣した。1245年、プラノ・カルピニはグユクハーンと謁見を果たし、モンゴルの国情を書籍に著わした。パックスモンゴリアのもとでイタリア商人が東アジアに至るようになり、カラコルムや大都をはじめ中国内の諸都市に滞在する者さえ現れた。マルコ・ポーロは約20年にわたった旅行記を口述し『東方見聞録』として残した。極東に至ったヨーロッパ人はそれぞれ誇張も含め、イスラムの国々やシルクロードの国々、そしてインドや中国の繁栄ぶりを語り、世界の大きさと豊かさを人々に伝えた。これを伝え聞いた人々はまだ見ぬジパングやプレスター・ジョンに夢はせた。

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15世紀、モンゴル勢力が衰退し、新たに台頭したオスマン朝トルコが1453年、ビザンツ帝国を滅ぼし、東西の中間に楔を打つように君臨した。オスマン朝トルコは整備された官僚制度と強力な軍隊で支配権を確立すると、東西交易を独占して交易品に高い関税をかけるようになった。オスマン朝トルコはイタリア諸都市の海軍に勝利して制海権を得て地中海を支配した。
(以上、ウィキペディアより引用)

すごい時代だったんでしょうね!